最近読んだ、面白い本って何かある?
友人たちと交わすこんな会話に、ここ丸2年くらい、まともに答えられなかった。産後、めっきり読書ができなくなってしまっていた。子のお世話が大変で…ということではない。もちろん大変なときもあるけれど、約1年前に子が保育園に行くようになってからは、一人で過ごす時間がぐっと増えた。仕事もそれなりにしてはいるが、産前ほど稼働しているわけでもない。読書するための時間がない、わけではない。
読書は、昔からわりと好きだった。特に小説やエッセイが。決して読書量が多いわけではないし、オールマイティに何でも読めるわけではないけれど、好きな作家さんはいるし、影響を受けた作品も、心に残る文言もある。待望の新刊が出ればすぐに手に入れないと落ち着かず、購入後は寝食を忘れて読んだ。そして友人たちと、最近読んだ面白い本について語り合う時間が好きだった。
そんな自分だったはずなのに、子を産んでから、本を読めなくなってしまった。上述のように、時間がないとか、生活環境が変わってしまったとか、そういう理由ではないような気がしている。原因をまだしっかりと分析できていないが、なんというか、気持ちが、脳みそが、悲しいかな、どうにも読書に向けられない。私って元々本がそんなに好きではなかったのかもと、妙に悲観的になってしまうときもある。
この約2年間、本を全く手に取らなかったかと言うと、決してそうでもない。育児書や離乳食に関する本は常に傍らにあったし(子は離乳食拒否が激しく苦労した)、仕事で必要な、あるいは参考になりそうな実用書、学習書などには積極的に目を通していた。ただ、これらの本は隅から隅まで熟読するというよりは、必要な情報が載っているページをつまみ食いするような性質の読み方だった。一方、好きだったはずの小説やエッセイに関しては、ネットでこまめに作品情報をチェックしていたし、本屋に立ち寄った際には気になったものを片っ端から買うことも、友人から勧めてもらったものをその場でポチることもあった。でも、いつもそれらをうまく読むことができなかった。最初の数ページで集中が途切れてしまったり、字面は追っているが内容がほとんど頭に入っていなかったり。薄い1冊を読み終えるのに、気づいたら数か月経っていたこともあった。とにかく、思うように読書ができなかった。購入した本は次々に積読本となった。時には図書館を利用することもあったが、1ページも読まずに返却することがほとんどだった。
(これを書いている今、はたと思ったが、私は単に活字に触れたい、というよりも、貪るような読書体験を再びしたかったのかもしれない。素敵な言葉に触れる体験、心を揺さぶられる体験を。それはもしかしたら、読書以外の場面でも得られたのかもしれないが、きっと読書を通して体験したかったのだと思う。)
だから、友人たちとの読書に関する会話についていけなかった。「最近めっきり読めてなくて」と言っては、彼らの話に耳を傾けるのが精いっぱいだった。それは有意義で、とても楽しい時間だったけれど、受け身でしかいられないことが少しだけ寂しかった。でも、読めないことを悲観する一方で、頭のどこかでは「きっといつかまた読めるようになる日が来る」と楽観的な自分もいた。こんなとき、ベトナム語の Cái gì đến sẽ đến.(来るものが来る、の意。ケセラセラ的な意味で使うフレーズ)に救われていた。そしていつか来るだろうその時のために、気になる本があればせっせと買い集めて積んでいた。
そんな私が。先日、ある1冊の本を数時間で読破した。松田青子さんの『自分で名付ける』(集英社、2021年)、雑誌『すばる』で1年間連載されていたものをまとめたエッセイ集である。
確かネット上のどこかのページでサジェストされて出会ったように記憶しているが、タイトルと短い紹介文にビビッときてすぐに購入した。誰のレビューも見なかった。届いた本の帯には「育児エッセイ」とあったが、実際には松田さん自身の育児の話というよりも、妊娠・出産・育児を通して松田さんが感じる、社会や制度への違和感、もどかしさ、憤りが静かに淡々と綴られていて、序盤からページを繰る手が止まらなかった。松田さんの怒りは、私の怒りだった。戸籍制度の存在や、夫婦別姓・同性婚が認められないこの社会。こういったものに対するもモヤモヤやイライラとどう向き合うべきか悩んでいた私は、まず、悩む自分を肯定していいんだという気持ちになって、ものすごく励まされた。松田さんは私にとって初めて読む作家さんだったが、彼女の考え方も、明瞭なその語り口もとても好きだった。著者紹介欄を見て、英語の翻訳も多数されている人だと知った。彼女の作品をもっともっと読んでみたい。今、『女が死ぬ』という作品を注文している。
『自分で名付ける』を、私は特急あずさの中で読んでいたのだが、移動時間だけでは読み切れず、でも早く続きを読みたくて、読みたくて、その日の所用の合間合間に、何度もバッグから取り出しては本を開いた。こういう体験は、本当に久しぶりだった。来るべきものが来たと思った。そういえば、昔は通学通勤時の電車内でよく本を読んでいたが、コロナがあり、妊娠出産があり、車社会のこの地に引っ越してからは(車が苦手な私はいまだに電動自転車で踏ん張っているが)、電車に乗ること自体がめっきり減ってしまっていたことにも思い至った。それでもやはり、読めなかった理由はそれだけではない気がする。なんとなく。
この体験が嬉しくて、嬉しくて、本の話をよくしていた友人についLINEを送ってしまった。友人は「自分のことみたいに嬉しい」と言い、最近見た面白い映画の話をしてくれた。彼女の存在に心から感謝している。
最後に、『自分で名付ける』という本のタイトルにビビッと来た理由について書き記しておく。それは、私が昔ホーチミン市に住んでいた頃に、初めて最後まで読み通すことができたベトナム語の小説、Nguyễn Nhật Ánh(グエン・ニャット・アイン)氏の “Cho tôi xin một vé đi tuổi thơ”(仮訳:少年時代に戻る切符をください)(若者出版、2008年)内の第3章 “Đặt tên cho thế giới”(世界を名付ける)を連想したからだった。これは、主人公の少年たちが、どうして物事を決められた名前で呼ばなければいけないんだ!と世の中に抵抗し、自ら世界を名付けるべく、「口」を「翼」、「テレビ」を「扇風機」、友達のトゥンちゃんを「フライトアテンダント」などと呼び始める短い物語だ。この、新たな名前をゼロから創出するのではなく、別の既存の名前で言い換えるところがなんとも可愛らしくて、彼らの奮闘ぶりと社会への敏感さが素敵で、この小説の中で最も好きなパートだった。当然、松田さんの本の趣旨とは異なる物語だが、それでも今回『自分で名付ける』を見つけたとき、この「世界を名付ける」を読んでいたときの高揚感を思い出したのだった。結果、私の小さな予感は的中し、久しぶりに心躍る読書を体験できた。非常に個人的だが、素敵な巡り合わせだった。
今はふと、もしかしたら「名付ける」という行為は、私にとって何らかのキーワードなのかもしれないという新たな予感が胸にある。こういう予感は、けっこう当たる。
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※最後までお読みくださり、ありがとうございました。先のグエン・ニャット・アイン氏の小説は『幼い頃に戻る切符をください』の邦題で翻訳され(伊藤宏美さん訳、加藤栄さん監訳)、2020年に公益財団法人大同生命国際文化基金より出版されています。気になる方はぜひチェックしてみてください!
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